フェイクスピア

いつぶりかしら、あんなにも泣いたのは。

 

無念の2/27から気付けばもう1年と4ヶ月ちょいですか。春を待つうちに夏も過ぎ、いつしか空は高くなり、また冬が来て、桜を愛でた記憶もないまま梅雨を迎え。

一体何枚のチケットをお嫁に出したことでしょう。誰かにお譲りすることも叶わず払い戻されたあの朗読劇は最前どセンでしたね。

傷が癒えてない訳じゃなかった。と思う。もしかしたらまだ全然かさぶたにもなってなくて未練ダラダラと血が出てたのかも知れないけれど。それでも流れる血に気付かない振りが出来るくらいには時間が経っていたし、我慢とか諦めとかそういうのも、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ得意になった。

淡い期待に胸膨らませ抽選に申し込み、ドキドキしながら結果を待つ時間が好きだ。発券して席を確認して、座席表と照らし合わせて。けれどやっぱり行けそうになくて、いつしか発券したチケットのコピーだけが手元に残るようになり、本物が無事に誰かの元に届いたのを確認するまでが一連の流れに変わっていった。

 

大阪は、わたしの住む田舎からは高速バスで2時間半。リセールに出せるギリギリまで粘って、悩みに悩んで悩み抜いて「行っても後悔、行かずとも後悔。ならば行くのみ!!!もしコロナなっちゃったらそん時はごめんね家族!!!」と半ば強制的に自分を納得させて今回の大阪初日参戦を決めた。無理を通してでもどうしても行きたかった。ロマドのでっかいトートバッグに三世次をぶら下げて行くのは発表された時から決めていたことだった。

大阪は、特別な場所だった。

 

新歌舞伎座に着くまではなかなか実感も湧かず、日生劇場へ向かう道中のほうが何倍も緊張してた気がして、どこか盛り上がりに欠ける自分に幻滅しかけてた。危険を冒して、反対を振り切ってここまで来たのに楽しめないなんて、と。何もかも嫌になりそうだった。

けれど、入口に堂々と掲げられたポスターの破壊力はわたしの想像をはるかに超えるもので、油断していたせいもあり、危うく幕が開く前から号泣する不審者になるところだったし、席に着いてからもパンフレットとチラシを愛おしげに見つめながら撫でてしまい再びの不審者だった。でも、そんな自分が嬉しかった。

 

【以下、ネタバレを含みます】

 

フェイクとリアル、フィクションとノンフィクション。その境界線はわたしの中では意外とハッキリしていなくて、考えているうちに禅問答みたくなってしまう。

死者を死者たらしめるのは生きている人間だと思う。もちろん生物学的な死はあるけれど、わたしたちはいつでもまぶたの裏に愛しい人を呼び出すことが出来るし、夢というよく分からない場所でなら会うことだって出来る。でももうその人は死んじゃってるから、あくまでそれは本物のその人じゃないし、いや本物には違いないんだけど質量を持った肉体の存在が客観的に証明出来ない以上、もうなくなってると言わざるを得ないんだろうから、そこで誰にでも平等な境界線を引くために死んだって言うんだと思う。誰が最初に言い出したのか知らないけれど。その誰かが言い出さなくて、その後も誰も言い出さなかったら、これまで死んでいった人やこれから死んでいく人はどういう立ち位置になってたんだろう。

死者と生者を別つのはそうしないときっと何か不都合があって、生者がその不都合を乗り越えるスキルを持ち合わせてなかったから自分たちの力不足を補うために境界線を引いたのかな、なんて考えてみる。けれど境界線を引いたところでやっぱり不都合はたくさんあって、だから今度はその不都合たちに悲しいとか絶望とか淋しいとかそんなふうないろんな名前をつけたんだと思う。体が怠いときお医者さんに風邪だと言われたら納得するみたいに、人はあらゆる事象に名前をつけたがる生き物だと思う。境界線のあっちとこっち。三途の川は簡単には渡れないと自分の感情に名前をつけて納得させて、また会いたい気持ちに蓋をする。あの人はもう死んだのだと。人間を納得を伴いたがる仕様にしたのは神様のほんの出来心かしら。それとも確信犯的な設計ミス?どちらにしてもこの仕様はややこしく、けれどそれが人間らしさだったりを表してるのかもね、なんて思ったり。

 

あの事故で発せられた言葉は現実であり、けれどお芝居はあくまで虚構であり。けれど劇場でのあの時間空間は現実であり、そこで発せられた言葉もまた虚構でありながら現実でもある。フェイクはリアルを孕み、リアルもまたフェイクを孕んでいる。そんな矛盾(それを矛盾という言葉で表すことが正解かどうか分からないけれど)を抱えて生きていくわたしたちは、時にその境界線を曖昧にしながら、傷付いた心を癒したり、逆に誰かを傷付けたりしているのかも知れない。

今、深く傷付くための材料に溢れたこの世の中で、誰かの傷口から流れる血や、誰かの目からこぼれる涙をそっと拭ってくれる【もの】は幾つくらいあるのだろう。それは人それぞれ違う【もの】だろうけれど、そんな【もの】のひとつにフェイクスピアが届けてくれた【mono】が仲間入りしたことを、わたしはとても嬉しく、また誇りに思う。

 

お芝居が幕を閉じたあの瞬間、これまで流し続けてきた血や、癒えてなお残る傷痕や、溢すまいと飲み込んできた涙を、一生さんのmonoがそっと抱きしめてくれた。頭を上げろと。がんばれと。生きていて良かったと、大袈裟ではなく本当に心の底から思った。叶わなかった天保の無念をほんの少し供養できたような気もした。鳴り止まない拍手とスタオベの中、何度もカーテンコールに応えてくれる一生さんを見ながら、こうして大阪初日を迎えられ、フェイクではなくそのリアルを共有できた奇跡に、わたしはこの世の至上の美しさを垣間見た。

 

思い出すだけでまた号泣しちゃいそうだから、美しすぎたお姿と、ほんの一瞬覗いたお脛のお毛をまぶたの裏に呼び出して、これにておしまい。

ありがとう一生さん。

ありがとうフェイクスピア。