三世次

シェイクスピアなんてわたしには高尚すぎて、と思っていた。

ましてや、観劇なんて。

 

行って来ました。日生劇場

そうです。天保十二年のシェイクスピアです。

 

いつだってそうだ。いつだって、手を引かれ、背中を押され、そういうハードルを易々と越えさせてもらってきた。その度に、好きは加速する。当然だ。

ねぇ世界、わたしの推し、最高でしょ?高橋一生さん最高でしょ(ドヤァ)

知らなかった場所へ連れて行ってくれてありがとう。見たことのない景色を見せてくれてありがとう。あなたのおかげでわたしの世界は今日もこんなにも美しく。

さて。

三世次さん、お初に御目にかかります。

わたしは、あなたを、抱きしめたい。

あなたをとても愛おしく思っています。

 

すこしだけ、普段よりも過敏になっていたんだと思う。気持ちを落ち着けたくて、歩いて行きました。ホテルから約20分。

今日のためにお迎えしたお洋服に身を包んで。いちばんのお気に入りのリップを唇にのせて。次第に夕暮れてゆく東京の景色を眺めて歩きながら、日生劇場に着いたとき。何度も何度も写真に見ていたそれが、目の前に現れたとき。もうそれだけで泣きそうになりました。と同時に、とてつもない緊張で吐きそうにも。

あぁ、もうすぐ、一生さんのお芝居を。ていうかおそらく今この同じ建物の中に、ひとつ屋根の下に、一生さんが。いっせいさんが!!!いっ、せ、い、さ、ん、が!!!!ハアァァァ無理泣く吐くムリムリムリ!!!さよなら今生。あ、プログラム売ってるわ。買わなきゃ。え、1冊でいいのかしら?

 

そんな錯乱とともに始まったわたしの人生初の観劇。それがこの舞台だったことをわたしは死ぬまで忘れません。否、死んでも忘れません。絶対に忘れません。

天保十二年のシェイクスピア、最高でした(語彙力)

 

幕が開き、一気にその世界に引き込まれる。あんなにも空気が一瞬で変わるのを肌で感じたことはありませんでした。楽しくてゾクゾクするのなんて初めての経験でした。

あぁ、舞台ってこういうことなんだ。お客さんがいて、俳優さんがいて、音楽があって。あぁ、今、同じ空気の中で、わたしもこの世界の一員になれてるんだ。なんて素敵。こんな機会を与えてくれてやっぱりわたしの推し最高。推しに巡り合えたこの奇跡に乾杯。

緊張と不安は霧散し、自然と頬も弛む。

 

そしてとうとうその時は訪れた。

 

息をのむとはまさにこのことだと思った。

込み上げる涙を必死に堪え、震える手で2階C列から双眼鏡を構える。

 

三世次。

 

 

高橋一生さんのお芝居やお歌がいかに素晴らしいものであったか、そんなことはもはや周知の事実であり、ここでわたしがどれほど筆舌を尽くそうとも伝え切れるものではなく。お芝居に触れた方達がそれぞれに感じられたことがすべてであり、とにかくわたしにとっては一生さんは最高が過ぎました。わかってはいたものの、やっぱり一生さんはとんでもなく素敵でした。冷静と情熱の間で「やっと会えたね」と叫びたくなるくらいには。

 

三世次は悪い奴だと聞いていて、確かになかなかに悪い奴でした。この世の醜悪をすべてその身に背負わされたような三世次。彼に人々は翻弄され、しかしそんな彼もまた、迎えるその最期は切なく哀しいもので。

わたしは演出とかそういうの詳しくないし、語ることもできませんが、三世次の哀しい最期とは対照的にラストはとても華やかで、そこにカーテンコールでの俳優さんや奏者さん達の楽しそうな姿も相まって、たくさんの人があっけなく無情に死んでゆくし、三世次も切ないし、悲しいお話だったけれど、でもとにかくよかったぜ!舞台ってすげぇな!と、なんとも満たされた気持ちで劇場を後にしました。

けれど、観終わってから2日(おい待てまだ2日しか経ってないのか)ふとした時に思い出すのは、満たされたしあわせな気持ちではなく、哀しくて切ない生涯を生き抜いた三世次のことばかりです。

 

醜いと罵られ、己の姿を見てみよと、愛する女に突きつけられた鏡に映る自分の姿を見て、三世次はどんな気持ちだったのだろう。不自由な身体に生まれ、蔑まれ嘲られながら、孤独に、それでも、綺麗は汚い、汚いは綺麗と歌いながら生きてきた彼が遂にはお代官様にまで成り上がり、きらびやかな着物を纏い、ドレッドよろしく束ねていた髪もサラツヤロングヘアーになって。あぁ三世次、立派になったね、なんて思った。どことなく誇らしい気持ちになったりもした。

彼はきっと彼なりに、もちろん彼は悪いし、たくさんの人が死んだわけだし、決して褒められたものではないけれども、自分の信じる何かに向けて突き進んだのだろう。お金も地位も手に入れて、けれど惚れた女を抱くことも叶わず、果てにはその女さえ自分の目の前で死んでゆく。

なぜ三世次ばかりがこんな目に。どうして彼は救われないの?悪者だから?可哀想すぎる。三世次だって志願して悪者に生まれてきたわけでもなかろうに。彼にだって光の下を歩む人生が用意されてもよかったはずだ。混沌とした時代では、穏やかなしあわせなど望むほうが愚かだったのだろうか。

 

あんなふうにしか生きられなかった三世次を哀れに思うと同時にまた、しかしそれは三世次が自ら選んだ道だったのだろうとも思う。『三世次は死にたがっている』と言っていた一生さんの言葉の意味がわかったような気がした。あんなにもすべてに渇望して見える三世次が、本当は死にたがっていたなんて、生きるとはなんて残酷であることか。

生きることの残酷さは先日とある映画、あ、ロマンスドールっていうんですけど、高橋一生さんが主演なんですけど、すごく素敵な映画なんですけど、それを観たときにも感じたことだったので、わたしには結構ヒリヒリしたし、今もずっとそう。

 

百姓は皆気が立っているからと騒ぎ立てられる中、こっちだって勃ってんだよと叫ぶ三世次に「ねぇ三世次、あなたの勃ってるソレはこのわたしが謹んでお引き受け致します故、どうか思う存分ゴシゴシして…!!!」などと思ったのはきっとわたしだけではあるまい。(あれ?この流れでこの文章、必要だった?でもどうしても言いたかったの許して)

色気にあてられていたことは否めないし、わたしにはややイセファナティックな傾向があることも否めないけれども、それを差し引いても、三世次は愛される悪者だったのではないかと思う。ダークヒーローと評されていた記事を読んだけれども、そんなふうに思わせるのは脚本の、演出の、お芝居の妙だろうか。やっぱり一生さんってすごい。

 

 

そうして三世次はわたしの中でとても愛おしい存在になった。

彼のことを思い出す度に、お代官様になる前の、汚いボロボロの三世次を抱きしめたくなる。汚いは綺麗、あなたは誰よりも純粋で、あなたもそれをわかってるはずよ、と。たとえ蔑まれ罵られ嘲られたとしても、わたしはあなたを愛しているわ、と。

汚れたその頬に手を添えて、そっと唇を重ねる夢を見るくらいは、許してもらえるかしら。それより先だって、わたしは吝かではないのよ。

 

瞼の裏に居る愛しい彼を想いながら、わたしはわたしの人生を、もうすこし、生き抜いてみようと思います。