ロマンスドール
まさかこのわたしが、ブログを書くなんてことになろうとは。
やはり2020年。令和も2年目を迎え半年後にはオリンピックもある。(2月のこの時点ではまだそういうはずだったのよね…それも含めて)何が起こるかなんて誰にもわからない。
神様の予想さえ軽く飛び越えて今に至るんだけれども。
ロマンスドールをね、観たんです。
おそらくわたしの属性は、いわゆる“イセクラ”と呼ばれる場所にあるのだと思う。
己のクラスタぶりを自認している訳でも公言している訳でもないけれど。
けれど確かにわたしはこと高橋一生さんに関してはややファナティックな(笑)傾向にある気がしないでもなく
何より彼のお芝居や
インタビューの中に見せる難解な思考回路や
クレバーな語彙のチョイスや
勿論そのビジュアルや
バラエティー番組で垣間見える
(もっとも、そう見せているに過ぎないのかも知れないし、たとえそうだったとするならそれはそれでまたどうしようもなく堪らないのだけれど)
少年のような無邪気さや
かと思えば
迸る色気でこちらをボコボコに殴りにかかってきたり
華奢に見えて、中性的な美しさを湛えるその反面、隠しきれない雄み?て言うの?
そんなとにかくいろんな高橋一生さんを、わたしはこの上なく好ましく思っている訳で。
なので、これから綴る映画ロマンスドールの感想にも、無意識にバイアスがかかっているであろうことは理解しているつもり。そのつもり。
しかし、それを差し引いたとしても。
ロマンスドールは、もう、すごかった(語彙力)
【以下、ネタバレを含みます】
キャストの皆様のお芝居が素晴らしかったのは言わずもがななので、敢えてここで語ることはしません。
この作品に関わられたすべての皆様に、心から感謝しています。
高橋一生asてっちゃんの素晴らしさは、言葉にするのも憚られるくらいに、それはもう、えぇ、もうとても。
わたしが、言葉に残しておきたかったこと。
それは
『人は、それでも、生きていく』
ということ。
映画には原作を読まずに臨み、読むのはいつも観終わってからのタイプなので、今回もそのつもりだったのだけど。
高橋一生さんと蒼井優さんの淡く儚く優しいお写真の装丁に惹かれ、つい、ついうっかり、ページを繰ってしまったわたしは。
腹上死、と。
その一文に衝撃を受けて、慌てふためき本を閉じたのだけど。とにかく、園子は哲雄とセックスしてたら死んじゃうんだ、と。
よっしゃ今回の俺様は物語の結末をほぼ把握してるぜ!無敵!という体で映画館へ向かいました。
だけど。
なのに。
園子が。
「ガンなの」
て、打ち明けたとき。
スクリーンに写るてっちゃんは、わたしでした。
園子が死んじゃうのは、原作と同様に冒頭で明らかにされていた。
そもそもその時点で「なんで死んじゃうの?」という思考回路にならなかった自分を褒めてやりたいのか呆れ果てるのか、とにかくわたしは園子の死因について言及することなく物語の川をその流れのままにたゆたっていた。
理屈ではなく、ただ惹かれ、愛し合って、そして結婚して。
柔らかく微笑み合う二人を見ながら
「あぁ、なんて尊い 」
「しあわせとは。しあわせとはこういうことを言うのだな」
「あぁいつか、いつの日にか一生さんにもこんな時が訪れますように。推しよどうかしあわせであれ!!!」
などと考えていたわたし。
あたたかい気持ちになりながらも、そこに一抹の寂しさのようなものを感じてみたり。
そんな中、夫婦の時間は流れ。
嘘と秘密を抱えたまま、いつの間にかぎこちなくなってゆく二人。
待ちたい園子と、寝ててくれてよかったのに、な哲雄。
一緒に食べたいご飯、返す踵。切ねぇなぁおい。
そして物語は二人が向き合い、ぽつりぽつりと話し始めるシーンへ。
夫婦が向き合うってこういう感じなんだな。
夫婦になった経験のないわたしはまだ見ぬ夢に思いを馳せ、しかしわたしも夫の高橋一生に怒りを向けられたい人生だった…などと。
続くやりとりを穏やかな気持ちで眺めながらふと気付く。
あれ、園子は、まだ言ってくれないんだ。
浮気って言ってたけど、なんかそれとは違うやつある的な感じじゃん。
それは言わない、みたいな。
この辺りで、ようやくわたしの心もザワザワし始める。
え?園子の秘密って何?
あと一週間だけ待って、って?え?(セリフはうろ覚え)
荷物まとめて。うわ、それ、今置いたやつそれリコントドケってやつじゃない?
てっちゃんが寝てるうちに…って、てっちゃんもう起きちゃってるし。
あー、きた。
「言わないと離さない」
したらさ、園子が。
「言うよ?」て。
「ガンなの」て。
哲雄の目に溜まってゆく涙。
(高橋一生かくやあらん!!!スキ!!!!)
「ガンって、何?」
このシーンで、哲雄に自分を重ねた人はどれくらいいたのだろう。
完成披露試写会のときの一生さんの言葉が蘇る。
『失ってしまってもう二度と絶対に戻ってこないものにどう折り合いをつけるか。それでも日常は続いていくっていうこの絶望と、希望。』
高橋一生さんの口からこの言葉を聞いたとき、わたしは泣いた。家で、インスタライブを観ながら。
人は、失くさないと大切さに気付けない。
大切な何かを失くすかも知れない恐怖に四六時中向き合えるほどの強靭な精神を、人はおそらく持ち合わせてはいない。少なくともわたしはそうだ。
だから、失くすかも知れない恐怖に蓋をして、見ない振りをして、今自分を取り囲んでいるこの奇跡のような日常を当たり前だと錯覚する。この穏やかな日々が、永遠に続くのだと。そんなことはあるはずもないと、わかっていながら自分を騙す。やがて訪れる終末からわざと目を逸らす。
人は死ぬ。
生まれてくるからだ。生まれなければ死ぬこともない。
ゴールがなければスタートはできない。人生はゴールのないマラソン、なんてのは嘘だ。どんなかたちであれ、いつか必ずゴールは訪れる。
悲観的だ、と言われるかも知れないけれど、出会うことは別れに向けての最初の一歩を踏み出すことだ。
そういうものだとわたしは思う。いいとか悪いとか、そういうことではなく。ただ、そういうものなのだと思う。
過ぎた時はもう戻せない。今というこの瞬間も、いつもと変わらないあの景色も、冷たい風も、交差点の赤信号も、美味しいコーヒーも、愛する人と交わした挨拶も。優しいキスも冷たいシーツも熱い身体も。もう二度と、あの瞬間に触れることはできない。
なのに、それを当たり前だと錯覚する。
当たり前に明日も明後日もそれが続くと。続いていくと。
でも人なんて、そういうもんでしょ。
きっと皆、そうやって生きてるんじゃないの?
「間違うからな、人間ってのは」
ねぇ、てっちゃん。そうだね。そうだよね、間違えるよね。そういうもんだよ。間違いなんて、正解なんて、答え合わせするまで誰にもわからない。
たとえ間違いに気付けても、過ぎた時はもう戻せない。わたしたちは進むことしかできない。巻き戻しは効かない。盆に還ることのない覆水に映り込んだあの日の自分の顔は、どんな色を滲ませていたのだろう。後悔?懺悔?諦め?
二人が互いの嘘と秘密を打ち明けるまで、哲雄と園子のセックスは描かれず、それが余計にわたしの感情を煽った。
失くすかも知れない恐怖を突き付けられながら、それでも今、目の前に確かに存在する大切な人を愛したくて、そのすべてを確かめたくて、震える指で肌に触れ、唇を重ね身体を繋ぎ、互いの温度の中で快楽の果てを見るとき、人はどんな気持ちになるのだろう。
哲雄の上で笑う園子はとても愛らしく、園子を乗せて笑う哲雄はとてもしあわせそうだった。
愛するって、こういうことなんだろうな、と思った。
ふたりがしあわせそうな分だけ、美しくて、切なくて、儚くて、悲しくて、わたしは泣き止むことができなかった。なんで泣いているのかもわからなかった。ただわたしの感情は爆発して、制御不能になった。
「永遠に続くものはない 永遠に手に入らないものがあるばかりだ」
完成したドールに園子を重ねようとした哲雄が、手を取って、名前を呼んで、唇を寄せたとき。
あぁ、哲雄はまた園子に会えるのかな、夢を、見ることができるのかな、と思った。救いが、あるのかと。
どうか、そうであってほしいと願った。たとえそれが、どれほど愚かで滑稽であろうとも。救われて欲しかった。
けれど、そこに園子はいなかった。
もしもわたしが神様だったなら、ドールを前に嗚咽を漏らして泣く哲雄へ、どんな言葉をかけただろう。
生きていくとは、こんなにも残酷なことなのか。
救われない。
過ぎた時はもう戻せない。
失ったものはもう二度と絶対に戻らない。
ドールはドールのまま。園子にはなってくれない。
当たり前の上に胡座をかいて、当たり前にこぼし続けてきたしあわせを、わたしが全部かき集めて、園子になって「はい、てっちゃん」て笑いながら、渡してあげたかった。
洗濯機に頭を突っ込んだのに、もがいて、足をバタバタして、死にかけになって、死に損なって、びしょ濡れになった哲雄が言う。
「つめてぇ」って。
あぁ、そうだね。
そういうことなんだよ。
今、自分は、絶望が底を尽いたようなところにいるのに、それなのに、冷たいとか感じてる。
死ねないんだよ。
わたしもたった一度だけ、手首にカッターナイフを当てたことがあるけれど、刃を引いた瞬間に、痛くて、ちょっとだけ血が滲んで、ボロボロ泣きながら「痛いし」て言って。それ以上、何も出来なかった。そのときに思った。あぁ、わたしは、死ぬことさえも出来ないんだと。
愛する人はもういない。
こんなにも絶望の果てにいるのに。
それでも、人は、死神のお迎えを待つくらいに絶望しているはずなのに、それなのにまだ生きようとしてしまう。
何も変わらない。洗濯機の水が冷たいのも、自分が息をしているのも。
変わらないものなんて、何ひとつないはずなのに、それでも自分は変わらない日常を繰り返す。当たり前だと思っていた園子は、もうどこにもいないのに、自分を囲む日常は何も変わらない。ただ、そこに園子がいないだけ。永遠に手に入らないものがあるばかり。
変わることも、変えることもできない自分。
死ぬことも出来ず、ただ生きるしかない自分。
きっとそれは新たなる絶望であると同時に、当たり前の日常へと次第に姿を変えてゆく。皮肉だね。変わらないことなんて、当たり前なんて、この世には何ひとつないはずなのに。
絶望する。
朝、目が覚める度に大切な人の不在と、自分の存在を確認する。今日も明日もそれを繰り返す。
変わらない。毎日毎日、絶望を上書きしていくだけ。そんな日常が続いていく。
上書きしながら、けれどそんな中でも、ふとやさしい気持ちになれるときがあったり、笑えることがあったりする。やがてそれも絶望と一緒に上書きされていくようになる。
絶望する日々の中でも、かつてのしあわせと同じ景色が変わらずそこにあることに気付かされる。あの頃と何も変わらない。大切な人がいなくても、やさしい時間は変わらずそこに流れ続けている。
変わらないやさしさに救われて。
それは暗闇に射し込む一筋の光?
それともこんな残酷なことってない?
どちらにせよ、もう大切な人はいない。それでも世界は変わらず穏やかなまま。
あの人の不在、自分の存在。
そんなふうにして、絶望と希望の間を行ったり来たり繰り返しながら、少しずつ、自分を取り巻く日常と向き合えるようになっていくんじゃないかと思う。きっと自分もそうしたいと思っているから、そうなっていくんだと思う。ような気がする。違うかな?
日々は絶望と希望にまみれて、それでも、人は、生きていく。
この世界は最低で、けれど、あながち悪いもんでもない。
ロマンスドールは、わたしにとって、そんなお話でした。
てっちゃんを抱きしめたくなったラストと、そこから流れるネバヤンさんのお歌と、エンドロールでいちばん最初に出てくる 高橋一生 の名前で、しゃくりあげながら泣いちゃったのは秘密。
(7/1 加筆)